Tsuboi Shōgorō
Japanese teacher
Intro | Japanese teacher | ||||
Places | Japan | ||||
was | Teacher | ||||
Work field | Academia | ||||
Gender |
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Birth | 22 February 1863, Edo, Japan | ||||
Death | 26 May 1913Saint Petersburg, Tsardom of Russia (aged 50 years) | ||||
Star sign | Pisces | ||||
Family |
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Education |
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坪井 正五郎(つぼい しょうごろう、文久3年1月5日(1863年2月22日) - 大正2年(1913年)5月26日)は、日本の自然人類学者。日本初の人類学者として、日本における考古学、人類学の普及と確立に尽力した。
蘭方医・坪井信道の孫として江戸の両国矢之倉(現・東日本橋)に生まれた(父は信道の女婿、幕府奥医師坪井信良である)。1877年大学予備門に入り、1886年帝国大学理科大学動物学科卒業。帝国大学大学院に進学し人類学を専攻、修了後の1888年帝国大学理科大学助手。翌年より3年間イギリスに留学し、1892年10月帰国し帝国大学理科大学教授。遠縁にあたる民間の研究家・林若樹がこの頃から助手として出入りする。同年蘭学者箕作秋坪の長女・直子と結婚。1899年理学博士号を授与された。日本の人類学の先駆者であり、日本石器時代人=コロポックル説を主張したことで知られている。1903年の第5回内国勧業博覧会では学術人類館に協力した(詳しくは人類館事件を参照)。1913年、第5回万国学士院大会出席のため滞在していたロシア・サンクトペテルブルクで、急性穿孔性腹膜炎のため客死。
人類学の創始者として鳥居龍蔵などを育てる。柳田国男と南方熊楠を結びつけ、また、三越のブレーン「流行会」メンバーとして玩具の開発でも功績を残した。
「人類学者、考古学者の坪井正五郎」 坪井正五郎(1863 - 1913)は東京帝国大学理科大学教授で、人類学教室を主宰。民俗学、考古学までを含むイギリス流の幅広い人類学を提唱し、草創期考古学の指導者として活躍。日本石器時代人について、コロボックル説を唱えた。趣味人としても知られ、玩具の研究、蒐集に関心を持ち、清水晴風(1851 - 1913)、巌谷小波 (1870 - 1933)ら玩具愛好家たちと交遊し大供会に参加。玩具を中心とする児童文化運動を推進した。 狂歌や戯文などにも長じ、「遺跡にてよき物獲んとあせるとき心は石器胸は土器土器」などの句を残した。土偶や石器の絵あり。「坪井正五郎本郷駒込西片町十番地ほ十三」と書かれた名刺が書き写されている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「人類学者、考古学者の坪井正五郎」より抜粋
直子夫人は箕作阮甫の孫娘で正五郎・直子夫妻は2男2女をもうけた。地質学者・鉱物学者・岩石学者の坪井誠太郎は長男、地球物理学者の坪井忠二は次男。また、長女・春は西田正三に、次女・菊は佐谷台二に嫁いだ。物理化学者の坪井正道は正五郎の嫡孫(誠太郎の長男)。