Biography
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Quick Facts
Intro | Japanese baseball player | |
Places | Japan | |
is | Athlete Baseball player | |
Work field | Sports | |
Gender |
| |
Birth | 25 April 1947, Kitakyūshū, Fukuoka Prefecture, Japan | |
Age | 77 years |
Biography
安田 猛(やすだ たけし、1947年4月25日 - )は、福岡県北九州市出身のプロ野球選手(投手)。
来歴・人物
プロ入り前
小倉高校では1965年の第37回選抜高等学校野球大会に出場。1回戦で、この大会で準優勝する市和歌山商の岡本喜平と投げ合い惜敗。同年の春季九州大会は決勝に進出、佐伯鶴城高の山中正竹と投げ合うが敗退。夏の甲子園県予選でも準決勝に進むが、三池工の上田卓三に完封を喫する。三池工は第47回全国高等学校野球選手権大会で優勝。
高校卒業後は早稲田大学教育学部へ進学。東京六大学リーグでは1968年秋季リーグの優勝に貢献。リーグ通算18試合に登板し4勝2敗。早大時代は同期の小坂敏彦に次ぐ二番手に甘んじた。他の大学同期に谷沢健一、荒川堯、小田義人らがおり、安田も含め7人がプロ入りしている。
小田とともに社会人野球の大昭和製紙に進み頭角を現わす。リリーフの切札として1970年の第41回都市対抗野球大会に出場。順調に勝ち進み、準決勝では高校時に不覚をとった住友金属の山中、岡本と投げ合い、この大会3勝目をあげる。決勝では三菱重工神戸と対戦、引き分け再試合の末に優勝を飾る。この試合では7回に山根政明をリリーフし好投、最優秀選手の橋戸賞を受賞した。
なおこの大会の予選はぎりぎりの通過だった。本選出場まで1ヶ月しかない間に、大学の先輩である長倉春生捕手からアドバイスを受け、安田は遅いボールのマスターに取り組み60キロほどの超スローボールをものにした。この球を武器に全試合ロングリリーフに立ち、チームを優勝に導く。この都市対抗が野球人生のターニングポイントになったと語っている。
翌1971年も第42回都市対抗野球大会に連続出場を果たすが、電電近畿との1回戦で先発の加藤初が先制を許し、その後は安田がリリーフするものの、よもやの敗戦を喫した。
現役時代
1971年のドラフト6位でヤクルトアトムズに入団。技巧派投手として入団当初から活躍し、1972年新人ながら7勝5敗、防御率2.08の成績で新人王と最優秀防御率のタイトルを獲得。翌1973年も防御率2.02で2年連続で最優秀防御率となるとともに、やはり2年連続でリーグ最多登板試合も記録する。更に同年にはリーグ最多無四球試合(5試合)を記録するとともに、同年7月16日の阪神タイガース戦から9月9日の阪神戦まで81イニング連続無四死球のプロ野球記録を樹立。なお、田淵幸一への敬遠四球で始まり、同じ田淵幸一への敬遠四球で記録が止まった。
1974年4月に新日鉄堺のグラウンドで投球練習をしていた際に右膝半月板を損傷する。一時は歩けなくなるほどの重傷であったがシーズン中に復活し、前年度に比べて登板回数が半減する中で9勝を重ねた。1975年からは4年連続二桁勝利を記録。松岡弘とともに左右のエースとして毎年15勝前後の勝ち星を挙げて、上位に躍進中であったチームを支えた。1975年からは3年連続でリーグ最多無四球試合を記録する一方、1978年には15勝をあげてヤクルトの初優勝に貢献した。同年の阪急ブレーブスとの日本シリーズでは、第1戦に先発するが8回に崩れ逆転負け、第4戦でも先発に起用されるが早々に打ち込まれ、真価を発揮できなかった。
右膝を故障した1979年以降は、成績が低迷。1981年には左膝の半月板も損傷し、同年限りで現役引退。
現役引退後
ヤクルト球団に籍を置いたまま、一軍投手コーチ(1982年 - 1986年, 1990年 - 1994年)、スカウト、スコアラー、編成部長を歴任。コーチ時代には2度のリーグ優勝と1993年の日本一に貢献している。野村克也はヤクルト監督時代に雑誌「ナンバー」にて、安田を「名スコアラー」と評している。
2009年限りでヤクルトを退団すると、2010年から夕刊フジの野球評論家へ就任。評論活動と並行しながら、JR東日本硬式野球部の臨時投手コーチも務めている。
その一方で、2012年には、1月20日付で日本学生野球協会から学生野球資格の回復を認定。この認定によって高校・大学の硬式野球部に所属する選手を指導できるようになったため、2017年1月からは、母校の小倉高校で硬式野球部のコーチを務める。2017年秋から、同部の監督に就任する予定。
プレースタイル
小柄なサイドスローの投手で、抜群のコントロールと緩急自在の投球術、機敏な動きから「ペンギン投法」と呼ばれ、名投手としてファンに親しまれた。
左のサイドスローから繰り出す球は、スピードはないが何れもかなりのクセ球であり、真ん中のストレートも球速はせいぜい130㎞であったが、チェンジアップがかってフラフラと決まるものだった。球種は何種類あったのかと質問された際、「1つの球種だけでもスピードの差で3種類投げ分けていたから自分でもわからないよ」と答えている。
逸話
巨人の長嶋茂雄・王貞治との対戦を楽しみにしており、プロ野球の世界へ入った目的は金でも名誉でもなく、二人と勝負することであった。しかし、王との初対戦ではストレートの四球で歩かせてしまい、一塁に出塁した王に対して思わず「すみません」と謝ったという。
一方で、王は安田を苦手にしており、王の対安田の通算打率は.254に留まっている。これは王の全盛期のセ・リーグの主力投手の中ではずば抜けた記録である(当時セ・リーグ最強の巨人キラーとして鳴らしていた平松政次への王の通算打率は.370、王への対抗心を激しく燃やした江夏豊は.287、星野仙一は.318)。ちなみに、王が本塁打世界新記録の756号をかけた打席で王と安田は7回対戦しているが、安田は真っ向勝負で1本の安打も許さず全て打ち取り、結局同僚の鈴木康二朗が756号を被弾してしまった。なお、安田は次の757号を打たれている。
プロ入りしてから伸び悩んでいたサイドスロー左腕の永射保は、安田が王を巧みに打ち取るのを見て「遅いクセ球で打者を翻弄する方法もあるんだ」と開眼し、以後、日本を代表するリリーフ投手になった。
登場する作品
いしいひさいちの漫画『がんばれ!!タブチくん!!』では、安田がモデルの『ヤスダ』投手が登場し、「新魔球」をたびたび披露して活躍する。この「新魔球」は前述の安田のクセ球がヒントになったものである(なお、チームメイトの大矢明彦が『オーヤくん』、当時ヤクルト監督だった広岡達朗が『ヒロオカ監督』で登場)、ペンギンに例えられるキャラクター描写もある。これに対する彼へのお礼は『がんばれ!!タブチくん!!』映画のペアチケットだけだったらしい。このキャラクターはコーチ昇格後だけでなく、小説雑誌編集者など役柄を変え、いしいマンガに重用され続け、今なお朝日新聞連載「ののちゃん」に小学校教師として(同僚役のタブチともども)登場し続け、いしいの漫画世界の主要キャラの一人になっている。ただし、これらの漫画でのイメージが強いせいか、友人でスワローズのファンであった小野ヤスシは自らの著書で、実際の本人とは違うと記している。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1972 | ヤクルト | 50 | 12 | 3 | 2 | 1 | 7 | 5 | -- | -- | .583 | 668 | 168.2 | 136 | 6 | 31 | 4 | 2 | 81 | 0 | 0 | 51 | 39 | 2.08 | 0.99 |
1973 | 53 | 14 | 11 | 4 | 5 | 10 | 12 | -- | -- | .455 | 799 | 208.2 | 175 | 13 | 25 | 9 | 1 | 107 | 0 | 0 | 50 | 47 | 2.02 | 0.96 | |
1974 | 28 | 15 | 4 | 0 | 0 | 9 | 5 | 0 | -- | .643 | 547 | 130.1 | 143 | 6 | 17 | 5 | 4 | 63 | 0 | 0 | 50 | 46 | 3.18 | 1.23 | |
1975 | 44 | 27 | 13 | 3 | 7 | 16 | 12 | 4 | -- | .571 | 978 | 243.2 | 238 | 20 | 36 | 10 | 0 | 101 | 1 | 0 | 78 | 74 | 2.73 | 1.12 | |
1976 | 38 | 32 | 12 | 0 | 6 | 14 | 13 | 2 | -- | .519 | 954 | 229.1 | 242 | 38 | 32 | 9 | 2 | 79 | 0 | 1 | 113 | 100 | 3.93 | 1.19 | |
1977 | 51 | 20 | 8 | 1 | 3 | 17 | 16 | 6 | -- | .515 | 894 | 214.0 | 229 | 35 | 51 | 10 | 3 | 108 | 2 | 0 | 95 | 89 | 3.74 | 1.31 | |
1978 | 47 | 21 | 6 | 1 | 0 | 15 | 10 | 4 | -- | .600 | 800 | 182.2 | 228 | 13 | 50 | 9 | 3 | 71 | 1 | 1 | 92 | 80 | 3.93 | 1.52 | |
1979 | 19 | 10 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | -- | .200 | 221 | 46.1 | 69 | 8 | 21 | 3 | 1 | 19 | 1 | 0 | 32 | 32 | 6.26 | 1.94 | |
1980 | 22 | 9 | 2 | 2 | 1 | 4 | 3 | 1 | -- | .571 | 319 | 77.2 | 77 | 12 | 20 | 3 | 0 | 24 | 0 | 0 | 33 | 33 | 3.81 | 1.25 | |
1981 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 32 | 7.0 | 11 | 3 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 7 | 7 | 9.00 | 1.86 | |
通算:10年 | 358 | 160 | 59 | 13 | 23 | 93 | 80 | 17 | -- | .538 | 6212 | 1508.1 | 1548 | 154 | 285 | 62 | 16 | 655 | 5 | 2 | 601 | 547 | 3.26 | 1.22 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- 最優秀防御率:2回 (1972年、1973年)
表彰
- 新人王 (1972年)
記録
- 初登板:1972年4月16日、対大洋ホエールズ1回戦(明治神宮野球場)、4回表から2番手で救援登板、3回2失点
- 初先発:1972年4月18日、対阪神タイガース1回戦(神宮)、7回1/3を1失点で勝敗つかず
- 初勝利:1972年4月27日、対広島東洋カープ2回戦(広島市民球場)、4回裏から2番手で救援登板・完了、6回1失点
- 初完投・初完封:1972年8月5日、対大洋ホエールズ15回戦(川崎球場)
- 初本塁打:1974年10月10日、対中日ドラゴンズ25回戦(神宮)、2回裏に三沢淳から2ラン
- 初セーブ:1975年6月1日、対広島東洋カープ6回戦(広島)、9回裏から2番手で救援登板・完了、1回無失点
- オールスターゲーム出場:3回 (1973年、1975年、1977年)
背番号
- 22 (1972年 - 1981年)
- 79 (1982年 - 1986年)
- 82 (1990年 - 1994年)
脚注
参考文献
- 近藤唯之 『引退 そのドラマ』新潮社(新潮文庫)、1986年
関連項目
- 福岡県出身の人物一覧
- 早稲田大学の人物一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧