三条 実忠(さんじょう さねただ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての公卿。太政大臣・三条実重の子。異母兄・公茂の養子となる。官位は従一位・内大臣。後三条内府と号す。
経歴
以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 嘉元4年(1306年)1月5日、叙爵。
- 延慶2年(1309年)2月19日、従五位上に昇叙。
- 延慶3年(1310年)3月9日、正五位下に昇叙。
- 延慶4年(1311年)1月5日、従四位下に昇叙。
- 応長元年(1311年)10月24日、従四位上に昇叙。
- 正和2年(1313年)2月6日、正四位下に昇叙。
- 正和3年(1314年)6月3日、侍従に任ぜられる。同年10月21日、左中将に任ぜられる。
- 正和4年(1315年)7月21日、右中将に転任。
- 正和5年(1316年)10月3日、美濃権介を兼ねる。同年12月23日、従三位に叙せられる。
- 文保2年(1318年)1月22日、下総権守を兼ねる。
- 元応元年(1319年)8月5日、参議に任ぜられる。右中将と下総権守はもとのまま。同月11日、左中将に転任。
- 元応2年(1320年)5月5日、正三位に昇叙。12月9日、権中納言に任ぜられる。
- 元亨3年(1323年)12月25日、勅授帯剣を許される。
- 正中2年(1325年)4月2日、従二位に昇叙。
- 嘉暦2年(1327年)3月24日、権大納言に任ぜられる。
- 嘉暦3年(1328年)1月5日、正二位に昇叙。3月16日、中宮大夫を兼ねる。
- 正慶元年/元弘2年(1332年)5月20日、中宮が女院号を与えられたために中宮大夫を止める。
- 正慶2年/元弘3年(1333年)5月17日、中宮大夫に戻り7月12日には皇后宮大夫となる。10月12日に皇后宮大夫を止める。
- 建武元年(1334年)12月7日、宮内卿を兼ねる。
- 建武3年/延元元年(1336年)5月25日、治部卿の兼任となる。
- 建武4年/延元2年(1337年)7月20日、治部卿を止める。
- 暦応2年/延元4年(1339年)12月27日、大納言に転正。
- 暦応3年(1340年)7月19日、右近衛大将を兼ねる。
- 暦応5年(1342年)1月7日、右馬寮御監に補される。
- 康永2年(1343年)3月19日、大納言と右大将を辞したが、4月10日に内大臣に任ぜられた。
- 康永3年(1344年)9月28日、大蔵卿雅仲が勅使として遣わされ、上表して内大臣を辞するよう仰せがあったが、その後重ねての沙汰とはならなかった。
- 康永4年(1345年)9月8日、内大臣を辞退した。
- 貞和2年(1346年)1月6日、従一位に叙せられる。
- 貞和3年(1347年)1月4日、虚労により薨去。
系譜
- 父:三条実親(1259-1329)
- 母:家女房
- 養父:三条公茂(1284-1324)
- 妻:左中将藤原公直の娘
- 生母不明の子女
脚注
- ^ 左中将
- ^ この時の名は公重。永子内親王御給による。
- ^ この時に実忠と改名。
- ^ 父公茂が左大将に任ぜられたため。
- ^ 『尊卑分脈』には兼右大将の時に奏慶がなかった、とある。
- ^ 任大臣の兼宣旨はなく、饗禄もなかった。