Miura Tameaki
26 May 1803 - certain 22 Apr 1841
Intro | 26 May 1803 - certain 22 Apr 1841 | ||
Places | Japan | ||
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Gender |
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Birth | 1803 | ||
Death | 1841 (aged 38 years) | ||
Family |
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三浦 為章(みうら ためあき)は、江戸時代後期の紀州藩家老。三浦長門守家第7代当主。官位は従五位下長門守。
享和3年(1803年)4月6日、紀州藩家老・三浦為積の長男として紀伊国で生まれる。幼名は祥太郎。文化12年(1815年)に名を為章と改め、翌文化13年(1816年)に通称を将監と称する。文化14年(1817年)3月には紀州藩主・徳川治宝に初めて拝謁し、翌文化15年(1818年)2月15日に治宝を烏帽子親として和歌山城で元服。文政4年(1821年)7月、梅小路定肖の娘と婚姻。
文政6年(1823年)5月28日、父の隠居により家督と知行1万5,000石を相続し、文政13年(1830年)5月17日に加判に列する。天保6年(1835年)に藩主・徳川斉順の参勤交代に従って江戸に出府し、同年5月1日には江戸城で第11代将軍・徳川家斉に拝謁。同年12月16日、長門守に任官。翌天保7年(1836年)1月に紀州帰国の命を受け、帰国途中の3月には遠祖・三浦義明の菩提寺である満昌寺に、3月5日には伊勢神宮に参拝し、3月15日に和歌山に帰国。天保9年(1838年)2月5日に正室が死去したため、同年5月5日に渡辺主水の妹を継室として迎える。
天保12年(1841年)3月2日、病のため死去。享年39(満37歳没)。墓所は和歌山県和歌山市の了法寺。家督は嫡男・為質が相続した。
なお、『南総里見八犬伝』の作者・曲亭馬琴の筆記助手を務めた土岐村路(馬琴の嫡子・宗伯の妻)の父は、為章に仕えた医師・土岐村元立である。