Matsudaira Sadanao

The basics

Quick Facts

Gender
Male
Birth29 February 1660
Death24 November 1720 (aged 60 years)
Star signPisces
Family
Children:Matsudaira Sadaakira
The details

Biography

松平 定直(まつだいら さだなお)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。伊予国松山藩4代藩主。定勝系久松松平家宗家5代。官位は従四位下・侍従。

生涯

伊予今治藩2代藩主・松平定時の長男として誕生。実母は側室嶺頂院殿(平岡氏の娘)。幼名は鍋之助。延宝2年(1674年)、又従兄に当たる伊予松山藩主・松平定長の養嗣子となり、同年に定長が死去したため松山藩主に就任。養母は京極氏の女春光院殿。この年に従五位下淡路守に任じられその3年後には隠岐守に転じ、従四位下に昇る。

天和元年(1681年)6月26日、越後騒動で改易となった元・越後高田藩主の松平光長が配流処分となり、松山藩が預かることとなる。8月1日松山に到着した光長を、松山城三ノ丸に蟄居させる。翌年4月、北の丸の蟄居屋敷に移転させる。この光長の預かりは、光長が江戸に移送される貞享元年(1683年)末まで続いた。同年11月1日、光長赦免の幕府からの奉書は、定直を通して光長が受領し、同月25日に光長は松山を発して江戸へ向かった。

貞享4年(1687年)、藩庁を松山城二ノ丸より三ノ丸に移し二ノ丸を藩庁別棟(隠居所)とする。宝永元年(1704年)、将軍家世嗣徳川家宣の官位昇進のため京都御使を命ぜられ侍従に昇進する。京都では東山天皇の拝謁を賜う。翌年、領内では財政難から初めて藩札を発行。一方で地坪制度を導入することによって農民負担の均質化をはかり、課税法を検見法から定免法に改めることによって安定した年貢収入に成功する。文化面では俳諧にたしなみ、その興隆に貢献した。大宝寺と西林寺の修復も行った。

元禄15年12月15日(1703年1月31日)に発生した赤穂事件に関して、定直は赤穂浪士47名のうち大石良金・堀部武庸・木村貞行・中村正辰・菅谷政利・千馬光忠・不破正種・大高忠雄・貝賀友信・岡野包秀の10名の預かりを命じられた。この頃、病床にあった定直は江戸城への登城ができず家臣を通じてこの命令を受けた。元禄16年1月5日(1703年2月20日)になって浪士達と会見。会見の遅れへの謝罪と仇討ちへの称賛を送り、「もっと大歓迎をしたいところだが、幕府からのお預かり人であるためできない。しかし諸事不自由はさせない。用事があれば遠慮なく家臣に申し付けてくれてかまわない」と述べている。

一方で、浪士たちを罪人として厳しく扱った記録も松平家にも残り、「鉄砲まで準備して警備」「切腹者が小脇差を取り上げ腹に当てる前に首を打つ」「左の手にて髻(たぶさ)を持って落とした首をもち上げ、目付に見せる」などの記述がある。 このことが「細川の 水の(水野忠之)流れは清けれど ただ大海(毛利甲斐守)の 沖(松平隠岐守)ぞ濁れる」(当時の狂歌)と批判された。(それでも、近年は松山市を義士会が訪れ赤穂義士祭が行われるなど赤穂市と交流がある。)

享保5年(1720年)、江戸松山藩邸三田中屋敷にて卒去。享年61(満60歳没)。

法号は大龍院殿前四位拾遺兼隠州刺史観誉喜広聞証大居士。遺骸は三田済海寺で荼毘に付され、遺骨は松山大林寺に葬られた。三男の定英が跡を継いだ。

系譜

  • 父:松平定時
  • 母:嶺頂院殿 - 平岡氏娘
  • 養父:松平定長
  • 養母:春光院殿 - 京極高勝娘
  • 正室:正心院 - 稲葉正往娘
    • 長男:松平定仲(1687-1691)
  • 側室:光樹院殿 - 渡部氏の娘
    • 三男:松平定英(1696-1733)
  • 室:村上氏
    • 四男:松平定章(1700-1747)
  • 生母不明の子女
    • 次男:松平鍋之助
  • 養子
    • 女子:恵光院 - 京極高兼の娘、墓所は愛媛県松山市の法華寺の京極家墓所

脚注

  1. ^ 当時の切腹は形骸化したが、それでも腹に触れる所作(実際には切らない)の後に介錯が正しい作法。
  2. ^ 通常は血が散逸しないよう、清めの拍紙を敷いた台に安置して検使に見せる。
  3. ^ 久松松平家文書「波賀清太夫覚書」など
  4. ^ 赤穂民報「松山市の紙芝居「赤穂浪士松山藩外伝」、上仮屋の「赤穂かきまつり」でも披露」ほか

関連項目

  • 松山藩
  • 久松氏
  • 松山城
  • 大石主税良金ら十士切腹の地
久松松平氏伊予松山藩4代藩主 (1674年 - 1720年)
久松松平氏伊予松山藩4代藩主 (1674年 - 1720年)
加藤家
蒲生家
久松松平家
加藤家
蒲生家
久松松平家
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