Biography
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Places | Japan | ||||
Gender |
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Birth | 1681 | ||||
Death | 2 October 1725 (aged 44 years) | ||||
Family |
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The details
Biography
間部 詮衡(まなべ あきひら)は、江戸時代中期の旗本。間部詮房・詮之の実弟。徳川家宣・家継に仕え、本家から独立し赤坂間部家という分家を興した。
生涯
延宝8年(1680年)、西田清貞の四男として生まれる。元禄7年(1694年)から甲府藩主、徳川綱豊(家宣)の小姓を務める。宝永元年(1704年)、家宣が江戸城西の丸入りすると、兄たちと同じく幕臣に取り立てられ、西の丸小姓になった。城内では、侍講の新井白石と、詮房および家宣との間の取次役を務める。
その後、兄詮之と同じく出世し、正徳5年(1715年)には1550石知行の旗本になった。正徳6年(1716年)、7代将軍徳川家継の死によって職を解かれ寄合に列した。享保10年(1725年)、死去。享年45歳。家督は長男の詮長が継いだ。赤坂間部家は明治維新まで存続する。
略歴
※日付は旧暦
- 元禄7年(1694年)、甲府藩主徳川綱豊の小姓になり蔵米250俵支給。
- 宝永元年(1704年)12月5日、西の丸小姓。
- 宝永2年(1705年)
- 3月18日、蔵米200俵加増。
- 4月18日、従五位下・中務少輔。
- 宝永5年(1708年)1月21日、300石加増。蔵米知行を改め、下総国相馬郡のうち750石を知行。
- 宝永6年(1709年)西の丸から本丸に移る。
- 宝永7年(1710年)
- 1月13日、伊豆国君沢郡・田方郡の内500石加増。
- 11月12日、伊賀守。
- 宝永8年(1711年)6月27日、伊賀守から淡路守に改称。
- 正徳2年(1712年)、落髪して引退するが翌年、職務に復帰。
- 正徳3年(1713年)8月18日、秋田季成の娘との縁組が決定。同年12月4日、婚礼の式を終える。
- 正徳5年(1715年)9月6日、三河国宝飯郡のうち300石を加増。合計1550石を知行。
- 享保元年(1716年)、5月16日、寄合。
- 享保4年(1719年)4月25日、娘が誕生。
- 享保10年(1725年)8月26日、死去。
赤坂間部家歴代当主
- 間部詮衡
- 間部詮長
- 間部詮番
- 間部詮芳
- 間部詮寛
- 間部詮徴
- 間部詮義
采地
赤坂間部家が支配した知行所の一覧。()内は村高と相給者の人数。
- 三河国
- 宝飯郡
- 御馬村(517.464石・五給)-100.159石
- 市田村(999.204石・四給)-199.8408石
- 宝飯郡
- 伊豆国
- 田方郡
- 南江間村(939.651石・三給)-247.854石
- 青羽根村(194.636石)-194.636石
- 君沢郡
- 平沢村(57.72石・二給)-57.51石
- 田方郡
- 下総国
- 相馬郡
- 上高井村(242.432石・三給)-179.242石
- 酒詰村(540.854石・三給)-538.854石
- 百井戸村(196.787石・三給)-87.577石
- 押戸村(739.954石・三給)-262.621石
- 羽根野村(212.638石)-212.638石
- 相馬郡
脚注
- ^ 名称は屋敷地がはじめ赤坂氷川台にあったことにちなむ。また「末家」ともよばれた。
- ^ 深井雅海 1991, p. 199.
- ^ 福留真紀 2006, p. 201.
- ^ 竹内信夫 1998, pp. 648.
- ^ 間部家文書刊行会 1980, p. 49.
- ^ 間部家文書刊行会 1980, p. 646.
- ^ 竹内信夫 1998, pp. 649.
- ^ 間部家文書刊行会 1980, p. 142,651.
- ^ 間部家文書刊行会 1980, p. 511.
- ^ 竹内信夫 1998, pp. 658.