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本来の表記は「李憕」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。 |
李憕(り ちょう、? - 天宝14載(755年))は、唐の玄宗の時代の官僚。安史の乱に際し、洛陽を守ったが、捕らえられ処刑された。
経歴
能吏として
太原郡文水県の出身。本貫は隴西郡狄道県(現在の甘粛省定西市臨洮県)。西涼の武昭王李暠の十一世孫。北魏の鎮西将軍・長安鎮都将・西兗州刺史・光禄大夫の李茂(李宝の子)の八世孫。監察御史であった李希倩の子。若くして、聡明さで知られ、科挙の明経に合格した。開元年間の初期に咸陽県尉となった。張説が相州刺史となった時、洺州の人相をよくすると評判のあった劉行にたずねたところ、臨河県尉の鄭巖とともに薦められた。そのため、張説の妹壻である陰行真の娘を娶ることとなった。張説が并州長史、天兵軍大使であった時、常にその幕下にいた。
開元9年(721年)、張説が宰相となった時、長安県尉に引き立てられた。また、宇文融の括戸政策に加わり、判官としたその田戸を調査し、監察御史に昇進した。その後、小さな事件に座し、晋陽県令に左遷されたが、その後は、兵部、吏部郎中、給事中を歴任した。官吏としての才幹があり、事務に明らかであり、非常にその能力と治績を称揚された。
開元28年(740年)、宰相の李林甫の意により、河南の少尹におとされる。この時、河南尹の蕭炅は、その権力に頼り、不法のことを行い、道士の孫甑生は、左道をもって昇進を求めていた。李憕は公直をもって蕭炅を正し、孫甑生の要求を全て拒否し、部下の官吏に頼られた。そのため、天宝年間の初期に清河太守に左遷されたが、政務のよろしきを得て、広陵の長史に遷った。民は彼の生祠を建て、祝いを毎年欠かさなかった。その後も功績を上げ、襄陽太守となった。天宝11載(752年)、河東太守に転任し、採訪処置使を兼ねた。都にもどり、尚書右丞、京兆尹に就任した。
忠臣としての最期
天宝14載(755年)、宰相の楊国忠に嫌われたため、光禄卿、東京留守に転任し、洛陽に赴任した。その時に安禄山が反乱を起こし、安西節度使の封常清が洛陽の防御を命じられた。李憕は礼部尚書に昇進し、ともに洛陽の守りにつき、盧奕と河南尹・達奚珣とともに、兵士を慰撫し、城郭を補修し、侵攻に備えた。しかし、安禄山軍の攻撃により、洛陽は陥落し、封常清は洛陽から敗走した。李憕は敗残の兵数百人を集めたが、全員逃げ出したため、盧奕に「我らは国の重責にある、力及ばなくても、死を避けてはいけない」と語り、東京留守府に座していた。達奚珣は降伏し、盧奕、蒋清とともに捕らえられ、三人ともに処刑された。死後に司徒を贈られ、「忠懿」と贈り名された。その後、さらに大尉を贈られた。
十数人いた子は同時期に殺され、李彭、李源だけが生き残った。
エピソード
- 春秋左史伝に通じていた。
- 産業振興に通じており、伊川一帯を豊かな土地に変え、時人から「地癖」と呼ばれた。
- 同時期に張説に抜擢された鄭巖も、田の殖産にすぐれ、李憕に次ぐほどであったと伝えられる。彼は、天宝年間に絳郡太守となり、少府監に就任した。
- 子の李彭もまた、科挙の明経に合格している。天宝年間に、咸寧県丞から右補闕に昇進しており、玄宗の長安出奔に従い、蜀に入ったが、すぐに卒している。
- もう一人の子の李源は8歳の時に家が滅亡し、捕らえられて、奴隷とされていたが、安史の乱後、買い戻された。その後も、一族が殺されたことを悲憤し続け、妻をめとらず、酒やなまぐさを断ち、祠に住んで、父の墓を守ったと伝えられる。
伝記資料
- 『旧唐書』巻百八十七下 列伝第百三十七下 忠義下「李憕伝」
- 『新唐書』巻百九十一 列伝第百十六 忠義上「李憕伝」
- 『資治通鑑』
- 高慎濤 《洛陽新出的<李轂墓誌>與李氏家族文學》