Kakuan Honda

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Quick Facts

Birth1818
Death1865 (aged 47 years)
The details

Biography

本田 覚庵(ほんだ かくあん)は江戸時代の武蔵国多摩郡下谷保村(東京都国立市谷保)の地主・在村医。通称は孫三郎、名は定済・定脩、号は謙斎・安宇楼・楽水軒。新選組近藤勇・土方歳三との関係で知られる。

生涯

文化11年(1814年)武蔵国多摩郡谷保村の大地主本田家の貫井村新屋分家に生まれ、母方の実家でもある本家本田孫三郎の養子となった。幼名は謙蔵(造)。

天保3年(1832年)江戸に出て麹町の産科医(安富家か)に入門し、『傷寒論』『五経之論』等を読み、本草学・鍼灸を学び、多和田養悦の輪読会に参加、丸薬の調合に従事し、武家屋敷への往診に同行する傍ら、愛宕神社・神田明神・目黒不動に参詣、11月9日長崎奉行大草高好の行列、閏11月4日琉球使節を見物した。12月26日養父昂斎の病気を伝える飛脚便があり、急遽帰郷した。

天保4年(1833年)2月13日父昂斎、天保5年(1834年)11月13日祖父随庵の死を見届け、天保8年(1837年)頃医業を開始し、近隣地域や分梅・屋敷分・府中・是政(府中市)・戸倉・国分寺(国分寺市)・貫井(小金井市)・立川・砂川(立川市)・日野(日野市)にまで往診し、産科を専門として難産や流産の後始末に立ち会った。

嘉永頃から交代制で名主を務め、万延元年(1860年)多摩川の川除普請に関わり、関東取締出役や韮山代官所手代に宿を提供した。幕末には江戸幕府の軍備増強に協力し、嘉永6年(1853年)韮山代官所から焔硝の製造を請け負い、文久3年(1863年)3月15日軍用米30俵を提供した。

元治2年(1865年)2月11日八つ時卒中により嘔吐・言語障害を生じ、夜五つ時死去、13日霊杏院大胸覚庵居士の戒名が贈られた。

著述

  • 『本田覚庵日記』 - 平成元年(1989年)くにたち中央図書館『国立市地域史料叢書』第12集所収。
    1. 「筆記」天保3年(1832年)6月1日 - 12月30日
    2. 「覚庵日記」万延元年(1860年)
    3. 「覚庵日記」文久元年(1861年) - 文久2年(1862年)
    4. 「癸亥日記」文久3年(1863年)
    5. 「楽水軒起居録」元治2年(1865年)1月 - 3月, 11月 - 12月、他人の筆。
  • 「活人録」 - 天保9年(1838年)からの配剤録。

墨跡

  • 祭礼幟「天満宮」 - 弘化4年(1847年)筆。谷保天満宮所蔵。国立市登録有形民俗文化財。
  • 大幟「妙理白山大権現」 - 安政3年(1856年)8月筆、昭和52年(1977年)復元。落合白山神社所蔵。

門弟

  • 本多雖軒 – 多摩郡国分寺村(国分寺市)出身。嘉永4年(1851年)入門し、本田家に召仕として仕えたが、万延元年(1860年)2月7日破門を言い渡され、万延2年(1861年)3月23日離門した。明治6年(1873年)武蔵国分寺最勝学校教師。
  • 青木省庵 – 多摩郡相原村(町田市)出身。万延元年(1860年)入門。明治4年(1871年)西洋医となり、大学東校で種痘等の活動を行った。
  • 山口与吉 – 多摩郡豊田村(日野市)出身。
  • 長沼周精 - 津久井郡与瀬村(相模原市緑区)出身。
  • 福田卯斎 – 常陸国土浦藩医。安政元年(1854年)入門。安政6年(1859年)離門し、長崎でボードウィンに西洋医学を学んだ。

交友

  • 寺門静軒 - 作家。天保の改革で弾圧された後、しばしば本田家に滞在した。
  • 小野湖山 - 漢詩人。安政の大獄で弾圧された後、安政6年(1859年)本田家に滞在した。
  • 川本衡山 - 八王子千人同心。書画で交流した。
  • 猿渡容盛 - 府中六所宮神主。桜田門外の変の第一報を容盛から得ている。
  • 近藤勇 - 新選組局長。剣術師範時代、本田家に度々1泊している。
  • 小島鹿之助 - 新選組支援者。

本田家

本田家は下谷保村随一の地主で、安政3年(1856年)時点で下谷保村の村高558石1斗4升2合のうち15%以上の86石を有したほか、弘化3年(1846年)時点で下谷保村に27人、上谷保村に5人、青柳村に1人の小作人を持ち、小作地の合計は12町5反3畝10歩余に及んだ。幕府の奨励する菜種や谷保の名産茄子を栽培し、近隣の宿場に売りに出していた。

本田家住宅は国立市谷保5122番地に現存し、主屋・薬医門は国の登録有形文化財。

先祖

  1. 本田定経 – 上野国白井(渋川市白井)に住み、天正年間越後国鮫ヶ尾城で戦死した。
  2. 本田源兵衛定寛(定弘) - 武蔵国川越に移り、調教師・馬医を務めた。
  3. 本田源兵衛定直
  4. 本田定之 - 寛永年間谷保村に移り、江戸幕府厩舎に務めた。
  5. 本田文左衛門定保 – 広島藩浅野家に仕えた。
  6. 本田市三郎重礼 – 石田新田土方家から養子に入った。
  7. 本田源之丞定庸 – 下谷保村関家から養子に入った。
  8. 本田源太郎定雄
  9. 本田孫三郎定綏(随庵、宝暦11年(1761年) - 天保5年(1834年)) - 大観堂と号し、医業を起こした。
  10. 本田孫三郎定价(昂斎、寛政7年(1795年) - 天保4年(1833年)) - 文化12年(1815年)市河米庵に書、また野村瓜州・菊池五山に漢詩を学んだ。

家族

  • 実父:本田郡司 – 貫井村(小金井市)新屋本田家。
  • 実母:とき – 本田随庵娘。
    • 弟:本田源三郎
    • 弟:本田綱吉
  • 養父:本田昂斎
  • 養母:きん – 石田村(日野市)土方家娘。
  • 妻:ぎん – 本田昂斎娘。
    • 長男:本田東朔 - 覚庵の跡を継いだが、慶応3年(1867年)9月15日20歳で死去した。
    • 次男:本田定年
    • 三男:本田定堅
    • 娘:とま - 日野宿(日野市)佐藤俊宣妻。

このほか召仕・下女・下男を複数人抱え、家事・農事に従事させていた。

脚注

  1. ^ 菅野 2003, pp. 52-53.
  2. ^ 菅野 2003, pp. 55-63.
  3. ^ 菅野 2003, p. 68.
  4. ^ 菅野 2003, pp. 69-72.
  5. ^ 菅野 2003, pp. 43-45.
  6. ^ 菅野 2003, pp. 46-48.
  7. ^ 菅野 2003, p. 87.
  8. ^ 菅野 2003, pp. 97.
  9. ^ 菅野 2003, pp. 51-52.
  10. ^ 菅野 2003, pp. 69-70.
  11. ^ 国立市教育委員会生涯学習課社会教育・体育担当(社会教育・文化財担当) (2016年12月19日). “有形民俗(4)”. 国立市. 2017年6月18日閲覧。
  12. ^ 白山神社由来”. 落合白山神社. 2017年6月18日閲覧。
  13. ^ 菅野 2003, pp. 76-81.
  14. ^ 菅野 2003, pp. 73-74.
  15. ^ 菅野 2003, pp. 90-94.
  16. ^ 菅野 2003, pp. 83-84.
  17. ^ 菅野 2003, pp. 17-18.
  18. ^ 菅野 2003, p. 35.
  19. ^ 菅野 2003, pp. 28-30.
  20. ^ 国立市教育委員会生涯学習課社会教育・体育担当(社会教育・文化財担当) (2017年1月14日). “国登録文化財(6)”. 国立市. 2017年6月18日閲覧。
  21. ^ 菅野 2003, pp. 19-22.
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