Kakiuchi Shigetane
���戸時代前期の豪商
Intro | ���戸時代前期の豪商 | ||||
Places | Japan | ||||
Gender |
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Birth | 1615 | ||||
Family |
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垣内 重胤(かきうち しげたね)は江戸時代前期の豪商。紀伊国有田郡栖原村垣内太郎兵衛家第4代目。紀州藩地士。
元和元年(1615年)紀伊国栖原垣内家3代垣内兼次の子として生まれた。幼名は千丸。17歳で両親を失い、家業を継いで関東で漁業を行った。江戸幕府に薪の納入を命じられ、安房国で薪を伐採し、船に下賜された「宝」字の旗を掲げて江戸城に搬入した。
家来荘吉が酒造を得意としたため、先祖垣内武行が遺した大判10枚を出資し、栖原に醸造場を設置して荘吉に任せ、摂津国・和泉国から多くの商人が買い求めに訪れた。荘吉は有田郡吉川村西垣内出身で、兼次の代から垣内家に仕え、重胤が見込んで義弟としたが、子がなかった栖原村北村角十郎の求めでその跡継ぎとなり、重胤は50金と、武行妻白樫氏から伝来した金剛兵衛の古刀を授けた。同村北嘉右衛門が漁業を廃した際、重胤はその漁具を買い取って荘吉の次男角兵衛に与え、相模国下浦で漁業を行わせた。
藩主徳川頼宣に度々招かれ、奉行菅沼九兵衛・代官寺島孫右衛門等を通じて60石と士分を打診されたが、これを固辞すると、永世地士に取り立てられて苗字帯刀を許され、2人扶持を賜った。
40代で長男垣内重信に家督を譲り、5人の子供に年齢で差をつけて家財を分配した。宝永3年(1706年)8月26日92歳で死去し、北山施無畏寺に葬られた。死ぬまで病気もなく、意識も明瞭で、応答も流暢だったという。