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Biography
一条 忠貞(いちじょう たださだ、文久2年(1862年)5月 - 没年不詳)は、江戸時代後期の公家。後陽成天皇の男系八世子孫である。従五位。
来歴
醍醐忠順の三男。慶応4年(1868年)6月、一条実良の息子奈良麿の死去により、一条家を相続した。一条実良の三女・良子と結婚し、婿養子のかたちになった。明治14年、京都から東京へ移住した。その頃から実良の未亡人総子と不和となる。義母総子は離縁を求めるものの、実父忠順は納得せず、訴訟事件に発展する。総子は忠貞の不品行や学業不振を離縁の理由としていた。明治15年(1882年)8月4日、東京始審裁判所は原告側の主張を認め、忠貞の離縁を申し渡す。明治16年4月25日、実家醍醐家は控訴するものの、忠貞の廃戸主が確定する。実家醍醐家に復籍した忠貞は、陸軍予備士官学校に入学した。明治18年9月、同校の廃校により、忠貞は退学した。『人事興信録(第8版)』により、忠貞は昭和3年(1928)まで生存を確認できる。なお、明治16年、一条家は一条実輝(四条隆謌の七男)を実良の娘良子の婿養子に迎えた。
系譜
一条家
一条家は、九条道家の子である一条実経を始祖とし、摂家の一つであった。
詳細は「一条家」を参照
醍醐家
醍醐家は、一条昭良の子である醍醐冬基を始祖とし、清華家の一つであった。
詳細は「醍醐家」を参照
皇室との関係
後陽成天皇 | 後水尾天皇 | 明正天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後光明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
後西天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
霊元天皇 | 東山天皇 | 中御門天皇 | 桜町天皇 | 桃園天皇 | 後桃園天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 典仁親王 | 光格天皇 | 仁孝天皇 | 孝明天皇 | 明治天皇 | 大正天皇 | 昭和天皇 | 明仁上皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一条昭良 | 一条教輔 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
醍醐冬基 | 醍醐冬熙 | 醍醐経胤 | 醍醐輝久 | 醍醐輝弘 | 醍醐忠順 | 醍醐忠敬 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
一条忠貞 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- 係累縁者が多数に上るため、後陽成天皇以降の歴代天皇および関連する男系男子の人物を記載した。そのため、母方の系図は省略している。
- 遠祖の一条昭良は、後陽成天皇の第九皇子として生まれ、一条内基の養子となり、一条家を継承した。
- 六世の祖の醍醐冬基は、一条昭良の子として生まれ、醍醐家を興した。
一条家24代当主 | |
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一条家24代当主 | |
宗家 |
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分家・支流 | |
土佐家 |
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土佐家 |
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