Date Muneyūn

���本の江戸時代の大名
The basics

Quick Facts

Intro���本の江戸時代の大名
Gender
Male
Birth1 March 1665
Death5 April 1711 (aged 46 years)
Star signPisces
Family
Father:Date Tsunamune
Siblings:Date Tsunamura Date Murayori Date Murajika
Children: 伊達村年
The details

Biography

伊達 宗贇(だて むねよし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。伊予国宇和島藩3代藩主。官位は従四位下・遠江守、紀伊守、侍従。

生涯

陸奥国仙台藩3代藩主・伊達綱宗の三男。母は三沢初子。正室は伊達宗利(宇和島藩2代藩主)の次女・三保姫。仙台藩4代藩主・伊達綱村の次々弟にあたる。

寛文6年(1666年)に陸奥仙台藩の一門衆筆頭・角田石川家の石川宗弘の養子となり、延宝7年(1679年)に元服する(石川氏時代は仙台藩主である父・綱宗、兄・綱基(綱村)より偏諱の授与を受けて石川宗昭(むねあき)、石川基弘(もとひろ)と名乗った)。しかし、貞享元年(1684年)3月13日、伊予国宇和島藩主・宗利の次女と結婚し、その婿養子となり、伊達宗贇に改名。元禄6年(1693年)11月14日、宗利が隠居したためその跡を継いだ。鎧兜が残されているが、それから察すると非常な巨漢であった。なお、仙台藩主家からの直接の養子でなく陪臣の家を経ているため、仙台藩が宇和島藩を末家扱いとする一因となった。

藩政においては元禄9年(1696年)7月4日、所領が7万石の実収入のところを高直しで10万石と過大申告する。これは、初代藩主・秀宗が伊予吉田藩に分与した3万石分を補い、宇和島藩の10万石としての体面を保つためであった。そのために町人新田開発や藩営の新田開発を奨励するなどしたが、ただでさえ苦しかった藩財政がますます苦しくなり、倹約令や商人からの借金、家臣団の大減封を行なう有様であった。宝永4年(1707年)には大地震で宇和島城が倒壊する。

宝永8年(1711年)2月18日、47歳で死去し、跡を三男・村年が継いだ。法号は大玄院殿天山紹光大居士。

系譜

  • 父:伊達綱宗(1640-1711)
  • 母:三沢初子(1640-1686) - 浄眼院、三沢清長の娘
  • 養父:石川宗弘(1631-1691)、伊達宗利(1635-1709)
  • 正室:三保姫 - 伊達宗利の次女
    • 長男:伊達宗相(1697-1709)
  • 側室:中里氏
    • 長女:曽智 - 夭折
    • 三男:伊達村年(1705-1735) - 宇和島4代藩主
    • 四男:田村村顕(1707-1755) - 田村誠顕の養子
    • 八女:幾久 - 夭折
  • 側室:高橋氏
    • 二男:岩次郎 - 夭折
    • 五女:長 - 蝶、夭折
  • 側室:鴇田氏
    • 二女:初 - 夭折
    • 四女:清 - 夭折
  • 側室:佐藤氏
    • 三女:民 - 夭折
    • 五男:百助
    • 六男:桑折宗恒 - 桑折宗敷の養子
  • 側室:某氏
    • 六女:久米 - 夭折
  • 側室:宮部氏
    • 七女:悦 - 夭折

脚注

  1. ^ 宇神 2011, p. 105.
  2. ^ 宇神 2011, p. 104.
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