| 本来の表記は「陳瓘」です。この記事に付けられた題名は技術的な制限または記事名の制約により不正確なものとなっています。 |
陳 瓘(ちん かん、嘉祐5年(1060年) - 宣和6年(1124年))は、中国・北宋後期の政治家。字は瑩中(えいちゅう)、諡は忠粛。南剣州沙県(現在の福建省三明市沙県)の人。
元豊2年(1079年)の進士。明州通判などの地方官を歴任する。紹聖年間に章惇が新法復活のために陳瓘を召し出すが、旧法党であった陳瓘は司馬光を擁護したため、滄州通判に左遷され、後に知衛州となる。徽宗の即位後に右司諫に任ぜられ、章惇や蔡京・蔡卞兄弟を弾劾し、続いて宰相になった新法党の宰相・曾布も弾劾して再び知秦州に左遷される。特に蔡京に対する批判の上奏を行うことはたびたびで、息子の陳正彙も同様の上奏をしたために、曾布を追って宰相になった蔡京に恨まれ、除名されて配流され、各地を転々とさせられた。蔡京が一時失脚すると、再び上奏を行うが、復帰が認められる前に蔡京が復権し、さらに台州へと移された。蔡京の悪事を糾弾することが多く、その恨みを買ったために特に厳しく扱われたという。楚州にて61歳で没した。息子の陳正彙も蔡京によって配流させられたが、靖康年間に父子ともに許され、正彙は官に復帰、南宋になってから陳瓘に諡が与えられた。『宋史』巻345に伝がある。