Biography
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Quick Facts
Intro | Daimyo | ||||||||
was | Daimyo | ||||||||
Gender |
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Birth | 21 June 1725 | ||||||||
Death | 7 October 1794 (aged 69 years) | ||||||||
Star sign | Cancer | ||||||||
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Biography
伊達 村候(だて むらとき)は、江戸時代中期の大名。伊予国宇和島藩5代藩主。別名は村房、村隆、政教など多数。官位は従四位下・遠江守、大膳大夫、左近衛権少将。農地制度を鬮持 (くじもち) 制から高持制にあらためた。
生涯
享保10年(1725年)、4代藩主・伊達村年の長男として誕生。母は伊達吉村の娘・富子。幼名は伊織。享保8年(1723年)生まれとも言われる。享保20年(1735年)、父の死去により跡を継ぐ。
外祖父で仙台藩主・伊達吉村(寛保3年(1743年)に隠居)から偏諱を賜り村候と名乗る。寛延2年(1749年)、新たに仙台藩主となっていた伯父の伊達宗村が、本家を蔑ろにする行為が不快であるとして、村候を老中・堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、前述のように仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりした。堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。これらの調停の努力もあり、表面的には同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残った。
藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団25か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦4年(1754年)からは民政3か条を出して民政に尽力し、延享2年(1745年)からは専売制を実施する。宝暦7年(1757年)12月には紙の専売制を実施し、寛延元年(1748年)には藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した。
しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ。そのような中で寛政6年(1794年)9月14日(異説として10月20日)に70歳で死去し、跡を四男・村寿が継いだ。法号は大隆寺殿羽林中山紹興大居士。
教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳嚢」と「甲子夜話」で賞賛されている。
系譜
- 父:伊達村年(1705-35)
- 母:富子 - 徳子、伊達吉村の三女
- 正室:護姫 - 鍋島宗茂の娘
- 女子:於貞 - 井伊直尚と婚約したが直尚死去、丹羽長貴正室のち離縁、植村家利正室
- 四男:伊達村寿(1763?-1836)
- 五男:少次郎 - 夭折
- 側室:田中氏
- 長女:藤 - 夭折
- 次女:栄 - 阿部正陳と婚約するが死去
- 長男:伊達徳輝 - 子・伊達寿光(伊達宗城養父)
- 次男:山口直清(1754-1793) - 山口直承の養子
- 三男:伊達徳元
- 六女:寛 - 牧野貞喜正室
- 六男:九十郎 - 夭折
- 七男:藤三郎 - 夭折
- 側室:細川氏
- 四女:久
- 五女:新
- 側室:木原氏
- 七女:初
- 側室:深沢氏
- 八女:富 - 花山院愛徳正室、松平直恒継室
- 九女:錬 - 夭折
- 八男:桜田壽忠 - 家臣桜田親賢を継ぐ
- 九男:桜田壽恕 - 家臣桜田数馬親仙を継ぐ
- 養子
- 女子:直 - 小笠原信房正室、堀川広益の娘
- 女子:操 - 夭折、伊達徳風の娘
脚注
- ^ 宇神 2011, p. 110.